フリーランス

転職と独立-経緯

これまで 6回転職して、計 7つの会社に所属してきました。僕は大学を中退しているので、新卒採用での就職経験がなく、7回ともすべて中途採用です。僕の経歴はひどいもので、現時点で最後の 2社以外はまったく別の業種です。

  1. 求人広告営業(1ヶ月)
  2. マンション営業(2ヶ月)
  3. 絵画販売(4ヶ月)
  4. 玩具卸売業商品管理(2年)
  5. ピアノ販売(2年)
  6. システムエンジニア・汎用機中心(5年)
  7. システムエンジニア兼営業(7年)

自分でも恐ろしいと思うのが、①〜⑤ は全部業務上の行き詰まりか人間関係が原因で退職、つまり逃げ出した、ということになります。残念なことに、それまでは仕事が本当に嫌で仕方がなかったのです。家に帰ってからの数時間、週末の 2日間だけを楽しみに生活していました。そしてその短い時間も何をするでもなく、ただダラダラと無為に過ごしていました。詳しい話は機会があれば書きたいのですが、(さして面白くもないので)今回は割愛します。現在は①〜⑤の経験が前向きに作用しているので、反省はしても後悔はしていないのですが。

今回のテーマは 筆者個人の経験から独立に辿り着いた経緯についてです。僕は少し偏った経歴のため、万人に通じる思考ではないかもしれませんが、今後他業種から SE に転身する人が増えることを考えると、似た境遇の人も増えるのではないかと思い、書き残しておきます。7社就職したあげくに独立した経緯を踏まえて、独立した背景を説明し、これから独立を検討している方の一助となればと思います。

尚、「独立なんかしないよ〜、でも給料上げたいよ〜」という方はリベ大が配信している動画を一読することを強く推奨します。

同チャネルでは上記のほか、より本格的な行動に関する動画もあり、そちらも大変有益です。給料をあげるにはまず、給料と能力は一致しないという事実を知っておきましょう。

まず、はじめて入った IT 会社(上記⑥)を退職した経緯を説明すると、理由は至って簡単で、Web システムの開発をしたいと思ったためです。システムが稼働するマシンの中に汎用機(メインフレーム)というものがあります。銀行などの大型システムで古より稼働し続ける超大型マシンです。独自の言語で開発するため、名前の割に汎用性は低く、レガシーシステムと揶揄されてます。

僕は汎用機を使ったシステム開発に 4年以上携わっていたのですが、その後 Web システムの開発に従事する機会があり、そこで IDE[1]IDE(Integrated Develop Enviroment):統合開発環境。プログラミングをするためのサポート機能を備えたツール。VSCode、Atom、Brackets などが有名 や Java を使った開発に大変な衝撃と感銘を受けました。汎用機の開発では想像もできないような生産性を実現していたのです。「これだ!」と思った僕は Web システムの開発を継続して希望していたのですが、願い虚しく再度汎用機プロジェクトに異動となりました。

そこで転職を決意したのですが、実際に Web システムに携わっていた期間は数ヶ月、それ以外はすべて汎用機という経歴がその後のキャリア形成に大きな障害となりました。それでも休みを勉強に充てて Web システムの開発を学び、技術的な裏打ちをしたうえで、ヒューマンスキルを全面に押し出し、何社も応募してようやく内定に至ったのが IT 2社目(上記⑦)だったのです。

ここではじめに目の当たりにしたのは、汎用機エンジニアの需要は極端に少ないということでした。当時は現在ほど人手不足ではなかったため、将来性や本人のやる気などは一切関係ありません。スキルのアンマッチはそれ即ち不採用です。2ヶ月近い社内失業を経験したのち、先輩社員と抱き合わせでプロジェクトに参画することになったのです。僕は汎用機という偏った世界から出たばかりで世間知らずだったのですが、抱き合わせで参画可能 =火事場なのです。そんな火事場でさらにパワハラとも呼べる異常な扱いを受けながら、それでもなんとかモチベーションを維持して学習を続けました。Web の世界は広く、技術不足を埋めるために相当な時間を費やし、応用情報技術者試験を受験し、さらに自分の経歴を少しでも活かすためヒューマンスキルを磨きました。なんとか鎮火して(しきれなかったこともありますが)異動するも、その次も火事場、さらにその次も火事場と炎上プロジェクトの鎮火は続きます。

火事場でもそれなりに成果を上げて、クライアントの評価を受けましたが、数ヶ月単位のプロジェクトを転々としている僕の職務経歴書は汚れる一方でした。現在はそれほどでもないのですが、当時はプロジェクトに長居しない、細かいプロジェクトに多数従事していると、人間的、或いは技術的に問題があり、プロジェクト退室を余儀なくされたと見なされる傾向があります。どこまで僕が努力して腕を磨いたところで、経歴書に現れなければ技術はないも同然なのです。

行き詰まりを感じた頃にちょうど当時の上司から営業への異動の話をいただきました。過去に営業経験があったことが目に止まったためです。僕はここで悩むことになるのですが、最終的にこれを承諾しました。尚、悩んだ一番の大きな理由は、SE としてこれまで学んだ時間がすべて無駄になってしまうのではないかと考えたためです。しかし、「技術がわかる営業」としてほかと差別化を図れるかもしれないということで納得し、承諾を選択しました。

営業になって当初は汎用的な営業のノウハウや契約に関する知識を書籍やセミナーで学んでいきました。念のため補足しておくと、IT 営業は他業種の営業と異なり、派遣会社の営業や転職エージェントに近いイメージです。社内或いは社外の SE を、人材を募集する会社へ斡旋することが主な仕事です。但し、当時の所属会社は請負開発を主眼としていたため、会社全体の業務のうち、半分が請負業務でした。そのためクライアント(委託したい会社)の要望に応じて見積やヒアリングなども行っていました。(ここの体験は現在も活かされています)

しかし営業職に就いて、経営陣と接する機会が増えてわかったことは、会社の抱える問題がどれだけ多いか、ということです。業界特有の問題もあれば会社特有の問題もありました。いずれも会社の成長を大きく阻害する要因であり、僕と上司はその問題について何度も議論し、なんとか改善したいと試行錯誤を繰り返していたのですが、ほとんどが改善されることはありませんでした。当然です、経営陣に危機意識も成長意識もなかったのです(あったのかもしれませんが、行動がなければそれは存在しないも同然です)。僕ら二人が何をしたところで根っこが変わらなければ何も変わりません。

そしてほどなくして所属する営業部は解体となります。もとより営業と開発の部署で不和があり、後発だった営業部の受注する業務内容に開発部署が異を唱えることが頻発しており、実際僕が受注した仕事を開発側が断ったため、自分自身で開発して納品したこともありました。社として営業の存在意義がなくなったのです。3年もしない間に上司と僕は開発部署へ戻ることになりました。この一連の事態で僕は会社に対する不信を大きく募らせることになっていきました。

長くなってきたので後半に続きます。

脚注

脚注
1 IDE(Integrated Develop Enviroment):統合開発環境。プログラミングをするためのサポート機能を備えたツール。VSCode、Atom、Brackets などが有名
ABOUT ME
yo
フリーランス、システムエンジニア。

営業・販売、肉体労働などを経て 2007年から IT 業界に従事。文系出身かつ未経験者のため立上りに大変な時間と労力を要する。

新規システム開発を提案から設計・実装・保守・運用まですべての工程を担当する(実装は主にサーバサイド)。その傍ら、他業種・他職種の経験や上記立上りの経験を活かし、教育や業務標準化など、組織の育成に勤む。

私立大学現役合格、現役中退。基本情報・応用情報技術者取得、高度試験はモチベーション確保という観点から見送り。普通免許ゴールド保持者。

趣味は犬。